夢をかなえるゾウ – 水野敬也

よもやま話,本の話

「お前なぁ、このままやと2000%成功でけへんで」
ダメダメなサラリーマンの前に突然現れた関西弁を喋るゾウの姿をした神様“ガネーシャ”。
成功するために教えられたことは「靴をみがく」とか「コンビニで募金する」とか地味なものばかりで…。
夢をなくした“僕”と史上最悪の“師匠”が繰り広げる、「笑って」「泣けて」「ためになる」実用エンタテインメント小説。

ジャケ買い

IMG_7655「実用書」とか「自己啓発本」と呼ばれる類のものには全く興味が無い。
読まない人よりは読んだ人の方が内面に蓄積されるものの厚さが増すということは理解できる。つもりだ。
だけど、本を読むだけで成功するとか、人生が劇的に変わるきっかけが手に入るとか、そういう触れ込みは、なんていうか、些細な事を大げさに演出して消費者をその気にさせるテレビショッピングの宣伝文句のように思えて、最初から斜に構えてしまうのだ。

そんな態度で接しているから、もし仮にそこに本当に「大金持ちになる秘訣」とか「思い通りの人生歩む方法」が書かれていたとしても「そんなわけないっしょ」とスルーしてしまうだろう。素直に暗示に掛かってしまったほうが人生幸せなのかもしれないが、そういう性分なんだから仕方ない。

「夢をかなえるゾウ」は2007年に出版され、そこそこ話題になった自己啓発本なんだそうだ。
テレビドラマやアニメやゲームにも展開されたらしい。

しかし、それほどまでに話題作だったことも、テレビドラマ化されたことも僕は全く知らなかった。
無知を晒してさらに白状してしまうと、書店で購入した時点でこれが「自己啓発本」だということすら知らなかった。

僕がこの本を手にとったのは、表紙の絵と、タイトルの「夢」という文字に惹かれたから。
夢のあるファンタジー、そんなイメージが頭に浮かんだ。
店頭でパラパラと内容を流し読みすることすらせず、ただただ表紙の「ちょっと変なゾウ」のイラストに魅せられてこの本を買ってしまった。

レコードで言うところの「ジャケ買い」というやつだ。

僕を惹きつけた表紙の「ゾウ」は、主人公を成功に導こうとする神「ガネーシャ」だった。
そういう意味では僕はガネーシャに「おい、自分。ちょっと待ってんか(ゾウの姿をしてるインドの神は何故か関西弁を話す)」と呼び止められたのかもしれない。
 

娯楽書的な面白さ

帰宅して本を開いて数ページ読んだ時点で、ようやく僕はこれがファンタジーではなく自己啓発本であることを知った。

ちょっと後悔した。
が、せっかく買ったものなのでそのまま読み進めることにした。

内容は実用書で一般的な「テーマごとの章立て」ではなく、1冊を通して物語形式になっている。

表紙の「ゾウ」は「ガネーシャ」という名の「神様」で、これまで多くの人を成功に導いてきた実績があると自慢していた。
そんな「神」が、「成功したい」と漠然と願っているごく普通のサラリーマンである主人公の前に現れた、というところから、物語というか、授業が始まった。

ガネーシャと主人公は基本的には師弟関係にあるのだが、「師」に絶対的な威厳があるわけではなく、どちらかというと我儘で周りを振り回す。
そんな「師」に教えを請う「弟」もまた平身低頭で卑屈になることもなく横柄で、たまに師を蹴ったり殴ったりしてる。

このふたりのやりとりが面白い。

もちろん「自己啓発本」だからガネーシャはそれなりに説教じみた話もするのだが、前後の脈略から読み進めていくとこれが不思議と押し付けがましくない。

先述した通りこの類の本には全く興味が無いのでほとんど読んだことがない。会社で強制的に受講させられる「自己啓発研修」の教材とかで断片的にお目にかかるくらいが関の山だ。だからこれは推論でしかないのだけれども「自分を変えよう」という趣旨で書かれた本の骨子というか論旨展開は概ね次のような流れに沿っていると思われる。

今ある自己の否定

変わりたいでしょ?

こういう考え方を持ってみなさい

このテの本を手にとる読者は「今の自分に満足していない」という人が多いはずだから「自己否定」から入るというのはマーケティングとしては正しいのかもしれない。
そして、それは同時に僕がこの類の本を拒絶する最大の理由でもある。

「お前なぁ、このままやと2000%成功でけへんで」

この本も「自己否定」から入った。

それでも僕がうんざりしなかったのは、このセリフを吐いた神ガネーシャも相当テキトーなやつだったからだ。本人は偉いつもりだし語り口もエラソーなんだけど、「教えてもらってる」という感覚が薄い。そのせいだろうか。身に付くか身に付かないかは別として、僕みたいなひねくれ者のアタマにもガネーシャの言葉はスッと入ってきた。

そう。「教えてもらってる」感じがしないのだ。
主人公とガネーシャのやりとりを楽しんでいた。

ただ単に「読み物」として。
 

秘訣なんかない

僕は「ゼロベースで見直す」とか「過去の自分との決別」みたいな言葉が大嫌いだ。

過去の自分を問答無用で否定し、新たに踏み出すためにリセットボタンを押すような生活態度で「何かが変わった」と思える人は、おそらく一生リセットし続ける。
そしてどこにも到達することはない。

自己啓発本の冒頭に書き連ねられる「自己否定」は概ね「これまでのあなたは間違っていた」という論旨だ。
たしかに間違っていた部分もあるだろう。これまでやってきたことのすべてが正しいわけがない。でも「正しかった」ことはあるはずだ。それを探求することをせず短絡的にリセットボタンを押せてしまう人間が「自らのあるべき姿」なんて見つけられるわけがないと思うし、「あるべき姿」がわからない人間に「成功体験」は永遠に訪れない。だろう。

そもそも「成功」ってなんだろう。

この本でその言動を引用されていた偉人たち。
イチロー、ロックフェラー、フォード、本田宗一郎、エジソン、シェークスピア、モーツアルト…。
彼らは成し遂げた「偉業」故に「名声」を得て「成功」した。
その原動力になったのは「やりたいことに没頭する」ということだ。

「成功」するには「努力」せねばならない。
それも半端ない「努力」だ。
寝食を惜しんで「没頭」する。それを人は「努力」と呼ぶ。
ところが、本人にしてみたらそれは「努力」じゃない。
その人はそれが心底好きで、やりたいのだ。
だから「没頭」できる。
その「没頭」から生み出されたものが、人の生活を便利にしたり、感動を与えたりできた時。
その人は「成功した」と周囲から見られる。

「やりたいことはなんだろう?って机に向かって考えてるうちは、自分、絶対成功できへんわ」

ガネーシャはそう言った。

そうなのだ。
やりたいことって、もうすでにやってる。
見つけようと思って見つけるもんじゃない。
無理矢理見つけたとしても、そんなもん長続きしない。

「成功」というのはやりたいことを見つけてひたすら没頭し、それに他人が評価を与えてくれること。
「やりたいこと」は頭で考えたり人から教えてもらったりするものじゃない。
自分の中から自然に沸き上がってくる欲求なんだ。

僕は自分のやりたいことはハッキリしている。
そしてそれをもう既にやっている。かなり没頭している。
没頭している時は寝るのも食べるのも惜しい。
許されるのであればひたすらそれをやっていたい。
そういう気持ちだ。

そしてそこから生み出されたものに触れて、さほど多くはないけれども、賞賛してくれる人がこの世界にいる。

巨額の富が得られたわけでもない。
広く名前が知れ渡るようになったわけでもない。
スーパースターを基準にしてみたら「そんなもん成功とはいえない」という人もいるだろう。

そうかもしれない。
でも僕はそれでささやかに満たされてる。

なんだ。僕は既に成功してるんじゃないか。

大いなる勘違いではあるかもしれないけれども、実際そんなことを思わせてくれた本ではあった。