ROSERIE
参加1989年4月〜1992年3月
演目オリジナル曲
担当ベース
自分で言うのもなんだけど、中学生の時は結構おベンキョーができて、高校でも最初の実力試験では学年5位か6位という優等生(!)だった。
しかしそんな栄光は高校生活を謳歌しすぎたが故にあっという間に過去のものになってしまい、高3のテストではほんとに全然ダメダメな状態に。共通一次も散々で大学入試はことごとく失敗し、当たり前のように浪人した。高校時代を楽しみ尽くしたことを別に後悔はしなかったが、親には心配と迷惑をかけてしまった。申し訳なかった。
で、当分受験以外のことは封印しようと決め、ひたすら勉学に勤しんだ。
1年間頑張ったなりのレベルではあるが、どん底まで落ちた偏差値をそれなりに復活させてなんとか大学に進むことができた。
「昭和」が終わり、「平成」になった年だった。
高校時代にROLLYで一緒に演っていた渋谷氏と、同じバンドでやったことはなかったが仲良くさせてもらっていた戸田氏が同じ大学に進むことを知ったのは、入学式に出席するために秋津から新秋津へ向かっている時だった。お互い「これから入学式です」的な風貌でバッタリ会って、「おお!そうだったんだ!」というところから「一緒にバンドやろうぜ」って話になるまでに時間は掛からなかった。
聞けば、ふたりは既にユニットを組んで曲作りをしているらしい。ドラムはやはり同じ大学に入学する渋谷氏の予備校時代の友人・福田氏がアテにできるとのこと。
オリジナルか。
いいな。
バンド小僧には比較的ありがちな「変遷過程」いうか、「通り道」がある。
- 好きな曲のスコアを見てコピー演奏する→いわゆる「コピバン」を組む。
- コードをかじって「自作の曲」を作り始める。
- 自作の曲=オリジナルを作り始めると、「コピー」を「人まね」「個性がない」と小馬鹿にし始める。
- 「オリジナル」「自己流アレンジ」と息巻きながら歳月を重ねるうちに、自分の持ち球が貧弱なことに気付く。
- またコピーを始める。この時には最初の「コピー」とは取り組む姿勢が(無意識に)変化してる。
- コピーだとかアレンジだとかオリジナルだとか、そういう些細な枠組みを気にしなくなる。
- 経験を積んで知識と技術を磨いて、幅が広がってくる。
- でも自分はいつまでたっても「これでいい」と思えない。
- 以降、7→8をループ。
※余談だが僕が最もイラッとするのは3で終わっていて4に向き合わず自信過剰になってる「(自称)ミュージシャン」だったりする。マ…いや、なんでもない。
この時の僕らは2から3に向かいつつあった。
だから「オリジナル曲」を作る彼らをすごいと思ったし、それに自分が考えるベースラインを当てるという作業がとても楽しかった。
最初の2年は楽しく平和に過ごしていた。あまり回数はこなさなかったが、人前で演奏させてもらったこともあった。
しかし91年中頃以降、僕が徐々に暗黒面に堕ちはじめた。
当時僕はこのバンドの他に学友だった高安氏が率いるGLAD EYEにも入っていた。力量不足で一旦解雇されたこのバンドに、鍛錬を積んで再び加入できた頃だった。
共にオリジナル曲をやるバンドだったが、GLAD EYEの方が刺激的で、高尚だとすら思い始めた。
と同時にROSERIEに物足りなさを感じるようになった。物足りないなら物足りるように努力をすべきなのに、僕はそのエネルギーを理不尽な怒りの感情に注いでいた。そしてスタジオであからさまに「あなたたちには不満です」という態度を取り始めたのだ。
今思えば、この時の僕は「3」が間違った方向に進行して、完全に思い上がった勘違いヤローになっていた。
自分の中で勝手に「優劣」をつけ、「優」を尊み「劣」を蔑んでいた。
そもそも「優劣」なんてランク付けできる身の程ではなかったのに。
このバンドにはこのバンドの良さがあったのに。
それを認めようとしなかったし、見ようともしなかった。
色々と酷いことも言ってしまった。
そんな状態でバンドを継続できるはずもなく、92年に入ってすぐ僕はフェードアウトしていった。
人間関係も壊してしまった。
この顛末は僕の中でずっと傷になった。
自らの傲慢、我儘、暴走が招いた決別。
その後も僕がバンドというものを長続きさせることができないのは、この一件ゆえかもしれない。
自分の嫌な部分が出て全部壊してしまうのではないかという漠然とした不安、その不安から逃れるためにバンドに深入りしない、というか。
上手く言えないけど。
それから22年後の2014年の初夏。
高校の恩師の勇退式があり、ここで渋谷・戸田両氏と再会した。
「ROSERIEの再結成に賛同します」
白髪交じりの戸田氏がそんな軽口を言ってくれた。
ありがとう。
僕は未熟だった。
演奏者云々以前に、人間として未熟だった。
ごめんなさい。